鉄の歴史
鉄の歴史
通常、例えば「数学史」と言えば、「ヨーロッパの数学史」のことを意味します。 これは他の国が現代化の過程の中でヨーロッパの数学を踏襲したからです。 「和算」も数学の歴史の中に入るかもしれませんが、これは別に扱うのが普通です。 現代に影響を及ぼしていないからです。同様に「鉄の歴史」と言えば これは「ヨーロッパの鉄の歴史」となります。以下主にこれについてまとめたものです。
「鉄の歴史」は世界の現代化において色々影響がありますが、 ある程度製造法の変遷などを理解していないと、歴史の理解が困難であろうと思われます。 例えば、英国の産業革命はコークスによる高炉から錬鉄の製造を始めた 1754 年に始まると考えたほうが 自然で、また産業革命を通して、錬鉄の製造が主役であり、鋼の製造は脇役でしかなかった などの事情を理解するには「錬鉄」とはどのようなものであったのかを理解していないと、 そもそも英国における産業革命の姿が目に見えてこないと思われます。 日本語の検索エンジンで「英国の産業革命」を検索すれば、 ものすごく多くの記事が検索できますが、当時の英国の産業を支えた「製鉄」のことには ほとんど記載がありません。だから日本人は何も知らずに「英国の産業革命」を議論していると 言ってよいと思われます。
産業革命における製鉄法に関しては、とりわけヨーロッパには身近に 多くの産業遺跡がありますから、その理解は比較的に容易であろうと 思われます。反面、日本人には雲をつかむような話ですから、 誤解が多々あるのではないかと思われ、 また全体像を理解することもかなり困難となります。 ここでは英語版の Wikipedia から関連する項目を列挙して、 歴史に直接ないしは間接的に関連する内容を部分的に翻訳をして、 理解の助けとしたいと思います。 なお、英語版の Wikipedia では中国の製鉄の歴史に関しても説明を加えているので、 その点も理解することになります。残念なことですが、日本ではほとんど語られていないことばかりです。 日本は製鉄に関してもほとんど中国の影響を受けていない。
製鉄に関して混乱を招く原因の一つに、 「鉄を鍛える」あるいは「鉄を鍛錬する」という日本語があります。 日本古来の「たたら製鉄」ではハンマーを使って鉄をたたく作業を 「鉄を鍛える」あるいは「鉄を鍛錬する」と言いますが、これは単に 不純物を除去する作業です。昔の日本人は作業の意味するところを知らなかったのです。 しかし、以上の事実は日本の文化の中に組み込まれており、 そのため辞書の類がすべて信用できないことになっているという結論になり、 また英和辞書に依存している文書にも基本的な間違いがあることが鮮明となりました。 これはヨーロッパの製鉄法を理解することから明らかとなる事実です。
ヨーロッパの製鉄に関しては最初の 4 つの項目を読めばだいたいのことがわかります。 その中に登場することの詳細が、それに続く項目です。英国の製鉄産業は産業革命に 至って爆発的なものとなります。とはいっても今日の製鉄産業と比べれば余り大したことがありませんが、 ヨーロッパ以外の国と比較するとその違いが顕著であると思われます。しかし、このような違いを 生じるきっかけがヨーロッパ中世にあり、とりわけ 12 世紀ルネッサンス以後に あるようなので、「中世ヨーロッパの技術」も最後につけてあります。 「加工硬化」も追加していますが、これは日本の昔の「包丁」の製造方法が加工硬化によるものであることが わかり、仕組みをある程度理解しているほうが良いと思われたためです。
英国で産業革命が成功した一因がその自由な環境にあると色々な個所で指摘されているので、 清教徒革命のことを調べようとしましたが、英語版の Wikipedia にはこの項目がなく、「三王国戦争」 として扱われていることに気づき、これも付け加えることにしました。製鉄に関しての ヒントはなかったのですが、「三王国戦争」の終了後およそ 100 年を経た後にコールブルックデール で錬鉄の生産が始まり、「社会環境の変化が産業構造の変化に影響を及ぼしている」 と推測することは可能なようです。
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- 塊鉄炉 (bloomery)
(最も古くから最も普通に使用されたありふれた製鉄炉、どこの文明にもある。日本は異常な例外) - 錬鉄 (wrought iron)
(塊鉄炉から製造された鉄でスラッグを含む、不純物はほぼスラッグに含まれ残りは純粋な鉄) - 高炉 (blast furnace)
(鉄を溶融するために爆風を吹き込む炉のことで、もともと「背が高い」意味はない。 直接できる鉄は炭素を吸収しすぎた鋳鉄) - 鋼 (steel)
(鋼を作る一番簡単で最も普通な方法は鋳鉄と錬鉄を混ぜて溶かすこと(るつぼ鋼)、 溶かす際にフラックスを入れれば精錬される。 西洋人は鋼の製造に「るつぼ」を使用したが、この単純な鋼の製造方法に気がつかなかった) - トリップ・ハンマー (trip hammer) (ハンマーは製鉄の歴史で重要な役割)
- 杜詩 (Du Shi) (中国で「ふいご」の動力に水車を最初に使った人)
- トロンプ (Trompe) (現代のコンプレッサーの御先祖)
- オスモンド工程 (Osmond process) (銑鉄から錬鉄を生成する工程)
- 精製炉 (finery forge) (銑鉄から錬鉄を生成する工程)
- オアグラウンド鉄 (oreground iron) (質の高いスウェーデンの錬鉄)
- セメント工程 (cementation process, 浸炭工程) (錬鉄から気泡鋼へ)
- るつぼ鋼 (Crucible steel) (気泡鋼を「るつぼ」で溶かす、西洋の「るつぼ鋼」)
- ヘンリー・コート (Henry Cort) (「パドル炉」の発明者)
- ベンジャミン・ハンツマン (Benjamin Huntsman) (「るつぼ鋼」の発明者、製造者)
- 反射炉 (reverberatory furnace)
- 鋳鉄 (cast iron)
- キューポラ (cupola) (鋳鉄を鋳造するための炉)
- パドル工程 (puddling) (銑鉄から錬鉄を生成する工程、パドル炉)
- ベッセマー工程 (Bessemer process) (銑鉄から錬鉄を生成する近代的な工程, 転炉)
- ヘンリー・ベッセマー (Henry Bessemer) (ベッセマー工程を考案した人)
- ラップヒッタン (Lapphyttan) (13 世紀のスウェーデンの高炉)
- ラスキル (Laskill) (リーヴォール修道院の高炉があった場所)
- ウィールドの製鉄産業 (ウィールドの製鉄はローマ帝国の時代からあった)
- ウィリアム・レヴェット (牧師) (ウィールドの大砲産業を作った人)
- コールブルックデール (Coalbrookdale) (産業革命発祥の地)
- ウィルソンタウンの鉄工場 (Wilsontown Ironworks) (熱爆風の使用)
- アビーデール産業村 (Abbeydale Indusctrial Hamlet) (シェフィールドの鋼の歴史)
- 鉄法 (Iron Act) (アメリカ独立戦争の一端となった英国の鉄の貿易に関しての法律)
- 加工硬化 (鉄をハンマーで打てば硬くなる)
- 中世ヨーロッパの技術 (製鉄のみならず色々な技術が登場)
- 三王国戦争 (日本語では「清教徒革命」として知られる史実、より自由な環境)
以上のページを読んでいくうちに気が付いたことを以下に記します。
鉄はどのようにして作られたか ?
鉄は自然界には酸化鉄や硫化鉄の形で存在しますが、 鉄は通常は酸化鉄から製造します。
酸化鉄から鉄を作るには酸素を奪えばよいだけです (還元)。 また自然界の酸化鉄には不純物が含まれ、これを除去する必要があります。 鉄の製造には直接工程と間接工程の 2 つがあり、昔の西洋で 使用されたのは直接工程です。これがどういうものであったのかを 理解しないと全体像が不明となります。
昔の西洋でもともと使用されたのは塊鉄炉 (bloomery) と呼ばれるものです。 ここに鉄鉱石 (赤鉄鉱) を砕いたものと木炭を入れて加熱します。 巧妙な点は鉄の溶融温度まで上げずに、その手前の温度を維持することです。 炉は密閉状態なので、これで一酸化炭素が発生し、一酸化炭素は酸化鉄の 酸素を奪い、これで鉄ができます。
一方、維持されている温度では鉄鉱石の中の不純物が流れ落ちます。 不純物がすべて流れ落ちてくれれば、これで鉄の誕生ですが、 半溶融状態となった鉄はスポンジ状のかたまりとなり、相互にくっつき、 その隙間にスラッグ (かなくそ) がかなり残ります。 できあがったものは花のような状態となり bloom (花) と呼ばれます。
何をすべきかカナダコールセンタービッグフットの人々
だから bloom (花) を作る場所である「塊鉄炉」(bloomery) は「花造成所」と でも訳すほうが適当ですが、それらしくも見えないし、誤解だらけとなるので、 bloom を「塊鉄」、bloomery を「塊鉄炉」と訳しています。 これは多分一般的な訳し方だと思います。
では塊鉄からどのようにして、スラッグを取り除くのでしょうか ? 大雑把には極めて単純です。スラッグは鉄と化学結合していません。 だからハンマーで叩くと、これが抜け落ちていくようです。 スラッグを取り除くために意図的にハンマーで叩いたというよりは、 整形する過程で自然にこうなったようです。 近世になると意図的に機械的なハンマーを使用したり、 搾る取る機械を使用して、目で見えるようなスラッグを取り除くことになります。 以上のスラッグを取り除く作業をシングル (shingle) と言いますが 対応する日本語がありません。
以上が鉄製造の直接方法で、基本的に鉄を溶かさない製造法です。 なまぬるく見えますが、温度を上げて鉄を溶かす温度まで上げればどうなるでしょうか ? この方が効率的に見えますが、ここに落とし穴があります。 鉄は溶けると、とてもよく炭素を吸収します。炭素の重さの比率が 0.2 % から 2.14 % であれば鋼となりますが、すぐにこれを越してしまい鋳鉄になります。 こうなるとハンマーで成型できなくなり、収拾が終えなくなります。 そのため、(鋼を製造する場合にせよ) 炭素を吸収した鉄から、炭素を奪わないといけません。 そのための方法は色々ありますが、基本的には高温の溶融状態にして、 空気と触れさせることです。これで鉄の中の炭素と空気中の酸素が反応して、 一酸化炭素ないしは二酸化炭素となって鉄から炭素が除去されます (脱炭素)。 できあがった鉄は塊鉄で、塊鉄炉から製造した塊鉄と同様な処理を することになります。 以上の鉄製造の工程を間接工程と呼びます。
最終的に出来上がった鉄は wrought iron と呼ばれ、「錬鉄」と訳されます。 これは一応、どうあっても若干のスラッグを含んでいます。 だから「錬鉄」は純粋な鉄とスラッグの混合物です。
鋼を作るのにはどうしたのでしょうか ? 鋼は「錬鉄」に炭素を浸み込ませて作りました。 不純物が含まれた鋼があっても、ここから不純物を直接除去できなかったのです。
古代の日本の製鉄との関連
鉄 (錬鉄,鋼を含む) には、冷間加工 (cold work) によって加工硬化 (work hardening) がおきます。冷間加工とは、常温もしくは再結晶温度未満で行う加工で、 具体的にはハンマーでたたけば硬化する現象です。但しあまりたたきすぎるともろくなります。
Steel - Wikipedia
には「鋼の性質」のことが書かれており、そこから引用すると
室温では、鉄の最も安定した形は、BCC (body centeric cubic, 体心立体格子) 構造の フェライトで、α-鉄とも呼ばれ、十分に柔らかな金属的な物質である。 これには炭素はほんの少ししか溶けることがない (910℃ で重量比で 0.021%)。 910℃ 以上では、フェライトは相の転移が起き、 BCC から FCC (face-centered cubic, 面心立体格子) 構造に変化し、 オーステナイト (austenite) あるいは γ-鉄と呼ばれる。 これは同様に柔らかく、金属的であるが、随分と炭素を吸収することができる (1154℃ では重量比で 2.03%)。
つまり、910℃ で結晶構造が変化します。 これより低温であれば、ハンマーでたたくと加工硬化が起きます。また
Wrought iron - Wikipedia
には最後の節「性質」で次のように述べています。(「錬鉄」に本文の全訳があります。)
錬鉄は炭素の含有量が少ないため、焼入れすることができない。 しかし鋼が珍しかったり、知られていない場所では、 時には錬鉄を冷間加工 (cold work) して硬化させて道具類が作られる。
これで事情がはっきりしました。これが昔の日本の包丁の作り方だったのです。
日本の昔の製鉄方法に関しては、例えば
ようこそ和鋼博物館のホームページへ
に解説があり、その中に次の頁があります。本来はフレームの右のほうに見える頁ですが フレームはリンクを張れないので直接頁を指定しました。
大鍛冶
そこには次のような説明があります。
大鍛冶
赤熱のまま取り出して大工(大鍛冶場の技術主任)の指揮で手子(てご)という4人の作業職人が 鎚打ち鍛錬して不純物を絞り出し、かつ脱炭も行います。 そして、この加熱と鍛錬を重ねて、形を整えたものを割鉄または 包丁鉄(錬鉄のことで炭素良は約0.1%)といい、諸道具の素材として出荷しました。
「炭素良」は「炭素量」のミスですが、包丁鉄を使用して包丁を作ることができる ことがわかります。 昔のヨーロッパ (産業革命時代を含む) では刃物類は錬鉄から作らず、鋼から 作っており、しかも「加工硬化」を使用しておらず、鉄を硬くするために「焼き入れ」 のみを使用しているようです。だからこの点で随分日本と違っています。 日本では日本刀を作るにも、包丁を作るにもどちらも「加工硬化」を利用しているようです。
大鍛冶の仕事は包丁を作るための包丁鉄を作ることであることがわかりますが、 大鍛冶の説明にはとてもおかしな点があります。どこがおかしいかというと 『鎚打ち鍛錬して不純物を絞り出し』です。 『鍛錬』と『不純物を搾り出す』がとても変であることがわかります。 『不純物を搾り出す』のであれば、ここの作業は英語の『shingle』に相当します。 しかし、これは『鍛えること』ではありません。 じっとこれを見ているうちにそのうち理解することになりました。 どこに書いてあったのか不明になっていますが、 製鉄の初期の段階では『shingle』が不純物の除去の作業であることを 理解していなかったかもしれない、というような記述を思い出したのです。 つまり江戸時代の大鍛冶は自分たちが何をしているのかを 理解していなかったことに相違ないのです。
雰囲気として『鍛錬』は『加工硬化』のことを指しているのではないかと、 考えていたため、ここまで理解するのに随分手間取りました。
包丁鉄 - Yahoo!百科辞典
によると、「包丁鉄には 10% 以上の酸化物が残存し」とありますから、 包丁鉄にはヨーロッパの錬鉄より不純物が多く、スラッグのことに気が付かなかったの かもしれません。こうなると『鍛錬』という言葉自身がおかしなことになります。 『鍛錬』は虚構の事実に基づく、虚構の言葉ということになりそうです。 あるいはもう少し積極的に『迷信』と呼ぶほうが良いと思います。 古いヨーロッパの製鉄方法を読んでいると、 ヨーロッパ人は鉄が元素であるという認識を古くから持っていたような気がしてなりません。
現代的な意味における元素が確立するのは 19 世紀後半ですが、鉄に炭素を浸み込ませれば 鋼となり、鋼から炭素を奪えば鉄になることをよく承知していたと思います。 その意味からは鉄が純粋な物質 -- 元素 -- であることを認識していたのではないかと 思います。パドル炉などを発明するには原理がある程度わかっていれば、どのようにすればよいか 見当が付くからです。
鉄は純粋な物質 -- 元素 -- ですから「鉄を鍛える」という日本語は非常に妙なことになります。 比較的低い温度の下でハンマーで金属をたたけば (or 冷間加工すれば) 加工硬化が おきることはヨーロッパでも随分古くから知られていた現象で、最初は青銅器に適用されたようです。 しかし、加工硬化は加熱すれば元に戻る (結晶構造の) 変化で、恒久的なものではありません。 ところが日本語の「鍛錬」とか「鉄を鍛える」という言い方は暗に恒久的な変化を感じます。 鉄が純粋な物質 -- 元素 -- であることを前提にすれば、そこに起きる変化は恒久的なものでは ありえません。 この点から判断をすれば古代の日本では (少なくとも製鉄に関しては) 『迷信』がはびこって いたと思われます。
非常に困るのは『迷信』が日本語に組み込まれてしまっていて、 英語から日本語に正常に翻訳できなくなっている点です。 幾つか実例を見てみましょう。 『シングル』する場所はフォージ (forge) と呼ばれる炉で行います。 英和辞書 (ヤフー) には次のように記載があります。
この訳はこれで適切です。フォージ (forge) には動詞の意味があります。 ウェブスターには forge の意味を次のように書いています。
通常は加熱した後で、ハンマー、プレスあるいはそれ以外の機械の打撃や圧力で (金属を) 成型すること
シングルはフォージの作業の特別な場合で中のスラッグを抜き出すために 色々な形にするだけです。ところが、 英和辞書 (ヤフー) には forge の意味を次のように書いています。
目の光ハイテクの発明信じられた人
どこがおかしいかおわかりでしょうか ? ウェブスターにはフォージ (forge) の 中に「鍛える」意味がないのです。今、ヤフーの英和辞書を例にあげましたが、 これは恐らくすべての英和辞書に見られるはずです。(ヤフーには 2 つ英和辞書がありますが、 どちらも間違いです。) これは誤訳なのです。
似たような言葉で malleable があります。英和辞書 (ヤフー) で調べると 次のような意味が書いてあります。
これだと英文の意味が随所で不明となり、いたずらに混乱する羽目になります。 mallet (マレー) とは「つち」のことで、malleable (マレーアブル) とは『「つち」を 使って、色々な形にすることができる』の意味で、「柔らかい」という意味が暗に含まれています。 従って malleable に「鍛える」意味は一切ありません。
「英和辞書」に間違いないしは基本的な嘘が書かれている証拠があったことになります。 無論「国語辞典」の類にも、わんさか嘘があることになります。
追加: 英和辞書に間違いが書かれている理由
上で述べた英和辞典の間違いに関して、納得していただけるのであれば、 この項目は読まなくても結構です。この項目を付けた理由は 「英和辞典に間違いがあるはずがないではないか」と考える人に対して、 もう少し別の根拠を提供するものです。 内容は「鉄の歴史」とは一応関係がありませんが、 「辞典」の類にも多くの間違いがあることを知ってもらうためのものです。
英語を使用するのは文系の人よりは、理数系の人の方が多いと思います。 昔、大学に入りたての頃、大学の教師は (科学的な文書に関しては)『原書で本を読む場合は「英和辞書」は信用してはならない』 と言っていました。「英和辞書」を信用しきっていると、とても変な誤訳となるためのようでした。 私自身は、その頃すでに英々辞書を使用しており、このようなトラブルはほとんど経験がなく、 英々辞書はとても重宝し、原書を読むのに不自由はありませんでした。 但し、専門用語は英々辞書に載っているわけではなく、これは色々な方法で調べる必要がありました。 英々辞書に関しては科学的な文書でも差支えないのです。問題があるのは英和辞書の方です。
何故、科学に関連する文書で、この様な事が起きているのか理由は不明でしたが、 科学記事は英字紙にもよく登場し、当時一括して「コンテンポラリー・イングリッシュ」(Contemporay English, 現代英語) などと呼ばれていたと思います。
その理由らしきものに気がついたのはずっとあとになります。 今ではどのような文章であったのか記憶にないのですが、ことさら専門用語が登場しているような文章では なかったと思います。この英文の文章を学生が翻訳したことがきっかけです。 ものすごく変に訳したので理由を聞いたところ英和辞書を示され、その通りに訳したのだとの返答が 返ってきました。見ると確かにそうです。英和辞書が間違っていることがすぐわかりましたが、 理由がすぐにはわかりませんでした。確か、簡単な動詞と前置詞の組み合わせで、専門用語は 関係していません。念のため Concise Oxford Dictionary も見てみました。 見たところ、どうもこれを直訳したらしく、それが誤訳となっていた。 ほとんど誰もご存じではないと思いますが、英和辞書では英文学に登場しないような英語の使い方は Concise Oxford Dictionay の直訳を書いてあるものが随分あります。 これは多分、コピーライトに抵触すると思いますが、随分以前に好奇心に駆られて調べたことから ほぼ確実です。
英和辞書に Concise Oxford Dictionary の直訳が出ていたからといって、別に驚くことはなかったのですが、 何故、誤訳になったのか少し不思議になりました。 もともとの原書の書き方は科学的文章ではよく出てくるのですが、多分英文学などには出てこない。 結論が出るのに 1 日ほどかかりました。言葉の順番が確かに少しおかしく、英文の構文として確かに変です。 慣れてしまって、学生の指摘がなければ気がつかなかったのですが、結局、これは英語で書かれてはいるが、 ラテン語の構文ではないかと結論することになりました。 科学的文書はもともとヨーロッパではラテン語で書かれており、その痕跡が今日の科学的文書に 使用されているのではないかという点です。 科学的な文章は特別な専門用語が登場しない限りは (少なくとも私は) 分野の違う英文を容易に読み取ることができます。 どれも同じような言い方をするからです。 だから、昔これを Contemporary English (現代英語) と呼んだのは間違いなのです。
日本語も類似の状況にあるのではないかと思います。日本語だけを勉強しても、時々困ることがあるはずです。 日本語では漢文などの素養がないと理解できない文章はあるはずです。 日頃からそのような文章に目を通していれば問題がないはずですが、 一度もそのような文章に遭遇していなければ問題が起きることになります。 だから、英和辞典に間違いがある多くの理由は英文学者達がラテン語の素養がないためなのです。 私はラテン語の素養などあるはずもありませんが、日頃から科学英語には目を通しているので、 違和感がないだけなのです。
塊鉄炉が有利であった点
塊鉄炉で錬鉄を作る技術は、その品質を問題としなければ それほど高度な技術ではないようです。
青銅器文明の後に、鉄器文明が始まります。 青銅は銅とスズの合金で以下の融点の表からもわかるように 青銅器文明から鉄器文明への移行には極端な技術力の進展がないと いけないように見えます。
融点 | |
鉄 (iron) | 1536℃ |
銅 (copper) | 1084℃ |
スズ (tin) | 232℃ |
ところが、塊鉄炉で一酸化炭素が酸化鉄を還元するには温度は 900℃ 以上あれば良く、 スラッグが溶けるためには 1200℃ あればよいだけです。 従って、青銅を製造する技術とそれほど違わない技術で鉄を作ることができます。 また青銅を製造する際に、偶然鉄が製造できたらしいとの記述が随所に見えることの説明にもなります。
この理由から、塊鉄炉は文明の初期の段階から使用することが可能であったのです。 しかし、ところが青銅の方が錬鉄より強いのだそうです。 だから、青銅器時代から鉄器時代への移行を促したものが、 簡単に利用できる銅、スズが減少したためであるという理由を聞けば、なるほどと 思うことになります。
しかし一方で、鉄は鋼にすることができ、鋼の武器は青銅器の武器を はるかに凌駕します。 塊鉄を作る炉で鋼の原料である銑鉄を作るには単に温度を上げればよいです。 このためには空気を強制的に送り込まないといけません。
鋼が製造された炉で現存するものは、スリランカのもので、2200 年前のものです。 これは季節風を利用するものです。 現代人からすれば「ふいご」を利用すればよいだけですが、これには少し時間が 必要です。
私は、この十年以内のことだと思うのですが、松江に行く機会があり、 このとき好奇心に駆られて「たたら」の博物館に足を延ばしました。 初期の「たたら」では風 (多分季節風) を利用し、これがそのうち「ふいご」 に変わる点が随分印象的でした。 だから、この点に関しては、一般的な歴史の流れに沿って、日本の製鉄が進展したことになります。
鋼の原料の銑鉄を製造する炉は「高炉」と呼ばれます。 英語では blast furnace と呼び、直訳すれば「爆風炉」となります。 blast furnace を単純に「高炉」と翻訳すると色々不都合なので、翻訳文中と 同様に「高炉[爆風炉]」とすることにします。
キャンプに何をもたらすか?
高炉[爆風炉]は銑鉄を製造する炉で強制的に風を送り込むものと定義することもでき、この定義からは「たたら」は高炉[爆風炉]です。 通常の高炉[爆風炉]と違う点は、溶融した銑鉄を取り出すのではなく、 冷えて固まるまで待つ点が違っています。このようにするのは、全体を均一にせずに 特定の部位の銑鉄を特定の用途に使用しようとした意図があったようです。
さて、鉄の製造は江戸時代まで日本で発展したでしょうか ? 鉄を溶融状態にするには燃料が余分に必要になり、 しかも銑鉄から炭素を抜き出すときにも余分に燃料が必要となります。 従って、初期の段階では塊鉄炉の方がコストで圧倒的に有利になります。 価格が安ければ、鉄を色々なものにして利用するでしょうし、 そうなれば需要が増えます。 西洋のように一方で塊鉄炉があり、もう一方で高炉[爆風炉]がある時代があれば、価格競争になります。 こうなれば益々鉄が利用されるようになるはずです。 最終的に、銑鉄から炭素を抜き出す方法にほとんどコストがかからない方法 (ベッセマー転炉) が発明されて、高炉[爆風炉]の方が断然有利になります。 日本には、このような歴史がありませんでした。
この価格競争があった点は、是非とも留意すべきなのです。 英国の「産業革命」の端緒は、コールブルックデールで、 コークスを使用する高炉から、始めて錬鉄が製造された 1754 年と考えるべきなのです。 それ以前は錬鉄は多くが外国からの輸入品で、それは木炭を使用する高炉で製造されていたのです。 1754 年以後、英国は廉価な錬鉄の製造をすることが可能となり、 その結果、鉄を使った蒸気動力の機械を作ることができるようになったのです。
もう一点付け加えるべきでしょう。 西洋において、鉄、鋼の製造が徐々にではあるにせよ、発展し続けたのは 国境を越えた影響があったからです。残念なことはこれは東洋にはほとんどなかった。
日本では技術を習得するには弟子となって技術を盗む以外に方法がありませんでした。 だから、技術が伝播するには日本国内でさえも随分時間が必要でした。
年表
中国は随分古くから高炉[爆風炉]を使用していますが、 それより前に塊鉄炉の歴史があるようです。 下の年表からわかる点は、中国では随分早くから色々な技術を 取り入れています。 ヨーロッパの高炉の歴史が始まる前に、 すでに原始的なものであるにせよ、ベッセマー工程の 先駆といえるものまで出現していますから、 実に驚くべきことです。
中国での製鉄がヨーロッパのように産業規模に発展しなかったのは 中国が鉄の専売をしたためと思われます。 中国の王室の収入源は江戸幕府と似ている面があります。 まず直領地があり、ここからの収入が基本となります。 ですが、これでは不足で、専売はこの不足を補うためのもので、かなりあこぎで あったようです。 塩の専売では、塩が多く生産された年にこれを貯蔵し、塩が不足となって 高値になった年にこれを放出したようです。 専売の儲けを維持するために常に値段が高止まりするように操作したのです。 だから、この専売は昔からとても評判の悪いものでした。 結局このようなことから中国では製鉄産業がより一層の発展を見ることが なかったようです。
宋応星による「天工開物」には 中国政府の色々な専売品の製造法が記載されていますから、中国内部では余りおおっぴらに販売できなかった 可能性があります。要するに密造法が書いてある。 但し、日本で製造する場合には密造とは言えません。「天工開物」は日本に保存されていたため、 現在その内容が明らかとなっていますが、何ゆえ江戸時代の人たちは、それを読もうとしなかったのでしょうか ?
中国 | |
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BC 5 世紀 |
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BC3世紀~BC2世紀 | |
AD 31 年頃 |
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4 世紀頃 |
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11 世紀 |
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1637 年 |
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ヨーロッパ | |
8 世紀 |
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13 世紀 |
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15 世紀 |
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16 世紀 |
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17 世紀 |
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18 世紀 |
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19 世紀 |
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ハンツマンの「るつぼ鋼」が時計のゼンマイに使用されたことに関しては ジョン・ハリソンをご覧ください。
古代中国との関連
前項で扱った年表を見れば、古代中国の製鉄が非常に進展したものであることがわかり、 とてもショックになります。 上記の年表に記載した事実は、主に次の項目に書かれていることです。
- 高炉 (blast furnace)
- トリップ・ハンマー (Trip hammer)
- 杜詩 (Du Shi)
- ベッセマー工程 (Bessemer process)
- キューポラ (Cupola)
最初は驚くだけでしたが、そのうち何故、古代中国の技術が古代日本に伝わらなかったのか 非常に違和感を感じることになりました。 日本はかって遣唐使などを通じて中国から多くのことを学んだと、 日本史の教科書は教えています。 しかし、これは嘘です。古代の日本は古代の中国からほとんど何も学んでいないのです。 伝播したのは仏教ぐらいなのでしょう。
英語版の Wikipedia では古代中国の技術的なことに関しては随分多くの記載がありますが、 日本語版の Wikipedia では記載は皆無です。多分日本人が何も中国から学ぼうとしなかったからです。 他の例を挙げると
- 中国では古代から外洋船であるジャンクがありますが、日本人はこの船の製造法を 学ぼうとせずに沈没ばかりする船で遣唐使を派遣しています。(「鉄の製造」/「日本の海軍は強かったのか ?」 を参照のこと)
- 中国の古代の数学の本で、「九章算術」、「周髀算経」、「孫子算経」のような本がありますが、 これは遣隋使、遣唐使で日本に伝えられているはずですが、誰も読もうとしなかった。 (貴族達にとってそもそも内容が理解できなかったことが確実で、学ぼうとしなかったことも確実)
- 「九章算術」にはユークリッド互除法が載っており、これは最大公約数を求める方法で、 直接的には分数を簡約するために使用されたものです。 (日本では分数は幕末になって始めてヨーロッパから導入されたと思います。)
- 「周髀算経」にはピタゴラスの定理が載っています。(古代の日本人でピタゴラスの定理が 理解できた人がいたと思いますか ? )
- 「孫子算経」には今日「中国の剰余の定理」と呼ばれる定理が載っています。しかし、 これは直接、日本人が理解したのではなく、ヨーロッパ人が理解したことです。 19 世紀後半に古代中国の数学の本をヨーロッパ言語に翻訳しようとして、 そこで始めて内容が解読されたのです。
このようなことを考えると古代の日本人は技術的なことに関しては、まるで無視をしていることが わかります。貴族達が分数計算やピタゴラスの定理を勉強しようとするわけがないためです。 だから製鉄に関しても同様だったのです。
人間は理解できないと無視するか、過小評価する傾向があります。 「高炉」の中の「訳注」で書いたことですが、 日本語版の Wikipedia の 天工開物 - Wikipedia では
本書は、明や続く清の時代に中国国内ではほとんど評価されなかった。
と書いていますが、これは間違いで、恐らく最も評価しなかったのは「日本人」の はずで、内容が理解できなかったからに相違ないのです。 英語版の Wikipedia の宋応星 (Song Yingxing - Wikipedia) では
「この本の写しは清朝 (1644-1911) の間は中国では非常に少なかった (その理由はこの本で述べられている幾つかの産業が政府の専売事項であったことによる) が、日本では幸運にも元の本の写しが保存されていた。」
としています。鉄や塩は中国政府の専売事項であったため、ヨーロッパ人は 「天工開物」は密造の手引書の形になっていたことをちゃんと理解しているのです。 しかし、何も理解できない古い時代の日本人は重要性のないことと単に決め付け、 そして本当の価値がヨーロッパから流入すると、今度はそれに迎合したのに他ならないのです。 だから常に古代中国の知識は最初はヨーロッパ人が解読し、 そこで始めて日本人が本当の意味を理解したのだと思います。
似たようなことは中国で発明された「火薬」にも当てはまります。 蒙古は鎌倉時代に日本にも侵略を試みますが、ヨーロッパにも侵略しています。 しかし、この後の推移は日本とヨーロッパでは随分違ったことになります。 ヨーロッパ人は、中国の「火薬」の製造法に磨きをかけますが、 日本では中国の「火薬」の製造の改良をしようとはしませんでした。 「種子島」が日本に流入したときに、始めてその価値を知ったのです。
このような違いを生んだのが、ヨーロッパの自由な環境に他ならないようです。 ルネッサンス以後のヨーロッパでは、知識がヨーロッパ中にとても速く伝播したようです。
産業革命
「新聞と嘘」の別の項目で「産業革命」のことを扱い、そのとき次のグラフを取り上げました。
挿入して作成したグラフ (英語版 Wikipedia の画像は自由にコピーでき、しかも改変ができます。)
上のグラフは「製造業の国別生産高の相対比率」で、直接鉄や鋼のことを記述しているわけではありません。 しかし鉄や鋼はすべての産業の下支えとなるものですから、 「鉄や鋼の製造高の相対比率」と「製造業の国別生産高の相対比率」が 大雑把には比例していると考えても良いのではないかと思います。
1709 年にエイブラハム・ダービー 1 世はコークスを燃料とする高炉から 廉価な深鍋 (pot) やヤカンを作り始め、それが完全に軌道に乗ったと思われる 1754 年にエイブラハム・ダービー 3 世がコークスを燃料とする高炉から 錬鉄を作り始めています。これも廉価のもののはずで、そのうち 色々な人が真似を始めるようです。鉄はすべての機械の材料ですから、 これにより多くの機械が製造されたことは疑う余地がありません。 だから 1754 年が産業革命の始まった年であると考えてよいと思います。
しかも、 錬鉄の製造技術が著しく進化していきますから、 錬鉄の製造ペースが随分増えたのに相違ないのです。しかも、その鉄を吸収するものが ないといけないはずで、身近な家庭製品などでこれが吸収されたと 考えるのはどだい無理です。従って、非常に多くの鉄の機械が製造され始めたことが 明らかです。
1784 年にパドル炉が発明されます。これも錬鉄の製造に随分貢献しているはずですが、 上の「製造業の国別生産高の相対比率」ではこれは区別できません。 どうも 1750 年、1800 年, 1830 年、 1860 年、... の統計量をもとにしてグラフを つくっているようですから、1750 年から 1800 年の中間におきたことは 上のグラフでは読み取れません。1800 年に若干増大しているようにみえますから、 これがパドル炉の影響であるかもしれません。また 1830 年にも増大しています。 これに対応する発展は 1828 年に高炉の爆風に熱風を使用し始めたことと 関連しているかもしれません。これは製鉄の効率をかなり押し上げたはずで、 スコットランドのウィルソンタウンで起きたことです。
以上の製鉄における変化は、すべて英国で起きたことで、 この理由から一方的に英国のみ「製造業の相対比率」が増えたと 考えても良いのではないかと思います。
当時のヨーロッパでは鉄 (錬鉄) と鋼の製造法は異なるものでしたが、 鋼の製造法に関しては 1740 年にベンジャミン・ハンツマンが シェフィールドの近辺で「るつぼ炉」を発案し、これにより 100 年後にシェフィールドはヨーロッパの鋼の半分近くを 製造するようになります。この事実も上の「製造業の国別生産高の 相対比率」の傾向と合致するものです。 鋼と錬鉄の製造法は違いますから、相互に関連はないと 考えることもできますが、一方で「るつぼ炉」は高温 (1600度C) にする必要があり、この様な技術は錬鉄の製造ともかかわり持っていたと も考えることができます。 いずれにせよ、産業革命時の英国の製鉄、製鋼技術はヨーロッパで ぬきんでており、これが「製造業の国別生産高の相対比率」に 結びついたと考えても不思議ではないと思われます。 また英国の技術を米国が取り入れようとしたことも明白で、 これがその後の変化を生み、米国も急速に製鉄、製鋼産業が 発展し、すべての産業の下支えをしたと思われます。
上のグラフは見方によればずっと恐ろしいことを意味しています。 このグラフは世界における国別の製造業の生産高の比率で、1750 年には 欧米をあわせても 20 % ぐらいです。上には空白がありますが 全体の 3 分の 1 程度は中国のものであったはずです。それが 1900 年になると 欧米だけで全世界の 80 % を占めています。あな恐ろしや。 (日本もグラフには載っていますが 1900 年頃は 1 % 程度で無視できる量です。) これはもっと別なことも意味しています。産業革命の始めの頃は繊維産業が さかんであったようですが、それが産業革命を特徴付けているわけではないことも明らかなのです。 色が付いていない部分は、欧米諸国以外の部分で、こちらのほうは生産量が変化していないのです。 しかも欧米の生産量の著しい増大を特定の産業の理由として捕らえることはどだい無理です。 すべての産業の生産量が増大しているはずで、その意味からは上のグラフは産業の下支えである 製鉄、製鋼産業の伸びと比例していると考えるほうが正しいと思われます。
「産業革命」の項目を書いたときに取り上げたもう一つのグラフがあります。 (これはRelative Shares of World Manufacturing Output 1880-1938 を真似して作成したもの)
世界恐慌に至るまで米国はますます製造量が増えます。 恐らく、この中には車の生産が含まれています。 これは個人レベルの消費ですが全体の生産量を著しく押し上げたと思われます。 ですから、このグラフに関しても製鉄産業と密接に結びついていると思われます。 (このグラフの時期には製鉄産業と製鋼産業の区別はなくなっていると思います。)
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