2012年4月16日月曜日

『失敗の技術 人生が思惑通りにいかない理由』 著者:マルコム・グラッドウェル 翻訳:勝間和代  | 立ち読み電子図書館 | 現代ビジネス+[講談社]


◎担当編集者よりの紹介◎

「世界でもっとも人気のあるコラムニスト」
マルコム・グラッドウェルの傑作エッセイ集から第2弾をお届けします。

 第1巻「ケチャップの謎」では、世界を大きく変えた"小さな世界の天才"たちの物語でしたが、第2巻のテーマは「人生が思惑通りにいかない理由」。人間が、問題や課題を解決しようとしても、なかなかうまくいかないのは、そもそも「問題解決のためのセオリーや前提」が間違っているからではないか? 

 そう考えたグラッドウェルは、企業スキャンダルや、乳がん検診、諜報活動(インテリジェンス)やスペースシャトルの爆発事故など、さまざまな実例を挙げながら、「人間の思い込み」と「現実」が如何に乖離したものであるかを、ズバリと解き明かしていきます。

 今回、お読みいただくのは、訳者の勝間和代さんをして「いちばん面白かった」と言わしめた第8章「一〇〇万ドルのマレー」です。アメリカでも深刻な社会問題になっているホームレスですが、グラッドウェルは「そもそも問題解決のための方法が間違っているのではないか」と鋭く見抜きます。

 キーワードは「正規分布」と「べき乗則」の違い。ホームレス問題に携わる行政関係者、専門家の方はもちろん、「社会事象を社会科学のデータで斬る」醍醐味を味わいたい方、必読の名コラムです!

 なお、グラッドウェルの「読みどころ」について、勝間さんに Ustream にてじっくりと語っていただいた動画(担当編集の私も出ております・笑)がこちらでご覧いただけます。

[第8章] 一〇〇万ドルのマレー
ホームレスのような問題は、その都度
対処するよりも一気に解決するほうが簡単かも知れない理由

1

 元海兵隊所属のマレー・バーは身長六フィート(約一八三センチ)、頑丈な体つきのクマのような男だ。だから彼が倒れたら─これは日課みたいなものだが─大の大人が二、三人で抱き起こさなければならない。まっすぐの黒髪。オリーブ色の肌。出没先のストリートでは"スモーキー"と呼ばれている。歯はほとんどないが、最高の笑顔の持ち主だ。みんな、マレーが大好きだ。

 好きな酒はウォッカ。「ビールなんぞは馬の小便」だそうだ。

 マレーは、ネバダ州西部にある賭博と売春が合法の街、リノの歓楽街でホームレスをしている。この街では、二五〇ミリリットル入りの安いウォッカがひと壜たったの一・五ドルで買える。懐具合が良ければ七五〇ミリリットルのボトルにするし、無一文のときは他のホームレスと同じことをする。カジノに入って行き、ゲームテーブルに置きっぱなしのグラスの飲み残しを空にするのだ。

「マレーが泥酔しているときは、一日に何度も保護したもんだよ」と語るのは、自転車警官(バイシクル・コップ)のパトリック・オブライエンだ。

「べろんべろんに酔っぱらってるときは、道端で拾って酔いを醒まさせる。でも二、三時間後に解放されたら、また同じことの繰り返しだ。たいていのホームレスは飲んでばかりで、ひどく怒りっぽい。態度は驚くほど不快だし、粗暴で、言葉遣いも最悪だ。

 だけど、マレーはあの通りの性格だしユーモアのセンスもぴかいちだから、なんとか我慢できる。彼が僕らを口汚く罵っているとき『マレー、みんな君のことが大好きなのは知ってるだろ?』と言うと、こう答える。『ああ、知ってるさ』─そしてまた、僕たちを罵りはじめるんだ」

「僕は一五年、警官をしている」。オブライエンの相棒のスティーブ・ジョンズも言う。

「その間ずっとマレーを道で拾い続けた。もちろん文字通りの意味でね」

 オブライエンとジョンズはマレーに酒をやめるよう懇願した。そして今から数年前、マレーは治療プログラムを受け、施設に軟禁され、見事に更生した。仕事に就き、真面目に働いた。

 しばらくたってプログラムが終わった。

「プログラムを卒業すると、報告すべき相手がいなくなる」とオブライエン。

「海兵隊員という経歴のせいかどうかわからない。たぶんそうなんだろうが、マレーは腕のいい料理人で、一時は六〇〇〇ドルを超える貯金があった。きちんと職場にも通い、求められることはすべてこなした。みんなで『おめでとう』と祝福しながらマレーをストリートに戻したよ。そのとたん、彼はその六〇〇〇ドルを一週間かそこらで全部遣い切ってしまったんだ」

 警察のトラ箱にも入れられないほど泥酔しているときは、よくセントメアリー病院やウォッシュー医療センターに搬送された。マーラ・ジョンズはセントメアリー病院の救急治療室でソーシャルワーカーとして働き、週に何度もマレーの姿を見かけた。

「いつも救急車で運ばれて来ました。警察に送り返すために、酔いを醒ましてもらうためです。そして充分に酔いが醒めたところで、警察に電話をかけて迎えにきてもらいます。そんなふうにして、私は主人と出会ったんですよ」

 マーラはスティーブ・ジョンズの妻である。そのマーラが続ける。

「周囲の状況がどんどん変わっても、マレーだけが変わらない存在のようでした。運ばれて来ると、彼はいつも歯の抜けた口でにやっと笑うんです。私のことを"僕の天使"と呼んだりして。私が病室に入って行くと、にっこり笑ってこう言うの。『やあ、僕の天使。また会えて嬉しいよ』って。

 他愛もない話をして、私が、お酒を飲むのをやめてちょうだいと頼むと、決まって笑い飛ばします。そのくせ、しばらくマレーが搬送されて来ないと、何だか心配になって、わざわざ検死官のところに電話をかけたりもしました。

 お酒を断っていたころ、マレーはあるお店で働いていて、主人とよくそのレストランにディナーを食べに行きました。今の主人と結婚することが決まったとき、マレーに訊かれたんです。『結婚式に呼んでくれるかい?』って。私、思わず、もちろんよと言いそうになっちゃった。『しらふだったら来てもいいわ、だってあなたのアルコール代、とても払いきれないもの』ってジョークで切り返しましたけど。私が妊娠したときには、大きくなったお腹に手をあてて、これから生まれてくる子どもを祝福してくれたんです。本当にそんな感じの魅力のある人でしたね」

 二〇〇三年秋、リノ市警は繁華街での物乞い行為を制限する取り組みをスタートさせた。だが、新聞に記事が載ると、市警は地元ラジオのトーク番組で厳しい批判に曝され、物乞いの取り締まりは"やり過ぎだ"と言う者もいた。

 ホームレスは市に厄介な要求をしていない。ただ毎日を生き延びようとしているだけだ。

「ある朝、トークショーを聞いていたら、市警を『弱者差別だ』と激しく非難する意見ばかりが続いたんだ」。オブライエンが言った。

「こう思ったよ。おい、そんな非難は、一度でも真冬の路地で死体を探しまわってから言ってもらいたいもんだ、とね」

 オブライエンは憤慨していた。リノの歓楽街では、ホームレスは食べ物に困らない。教会が行うボランティアのみならず、地元のマクドナルドでさえもが、腹をすかせた者に食べ物を与える。物乞いはアルコールのためであり、アルコールは決して無害ではない。オブライエンとジョンズは、勤務時間の少なくとも半分はマレーのような人間を相手にしている。警官でありケースワーカーの仕事までこなしているのだ。そして、それが自分たちだけでないことも承知している。

 ホームレスがストリートで意識を失う。救急隊員(パラメディック)に「人が倒れている」という通報が入り、救急車に乗って四人が駆けつける。入院はときに数日にも及ぶ。酔っぱらいのホームレスはまず間違いなく病気だからだ。もちろん、どれも少なからぬ費用がかかる。

 オブライエンとジョンズは、かつてホームレスに関する追跡調査を行ったことがある。

 まず、救急車サービスの知り合いに電話をかけ、地元の病院に連絡を取り、「歓楽街で常習的に酩酊状態にあり、最も頻繁に保護された三人」の名前を聞き出した。オブライエンが続きを語る。

「ひとり目のホームレスは刑務所に入っていた経験があり、路上生活をはじめてまだ半年だったが、その半年間で治療費を一〇万ドル積み上げた─しかも、その金額は、市内にふたつある病院のうちの小さいほうだけで、だ。もういっぽうの病院にはさらに大きな請求額が積み上がっていると考えて差し支えない。二番目は、オレゴン州ポートランドから三ヵ月前にリノにやって来た。だが、三ヵ月間の病院の治療費は六万五〇〇〇ドルにもなる。そして三番目は、禁酒していた時期があったために治療費は五万ドルだ」

 彼らの最たる者こそがマレーであり、これまで彼が路上で暮らしてきた一〇年間の病院の請求額に加え、アルコール依存症患者用の治療費、医師への診察代、その他諸々の費用まで合わせると、彼にかけられた医療費は、ネバダ州一高くなってしまうことがわかった。


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「何か手を打たなければ、市の負担が一〇〇万ドルを超えてしまう」。オブライエンが言った。

2

 一九九一年三月、黒人男性のロドニー・キングが、ロサンゼルス市警の白人警官に激しい暴行を加えられるという事件が起こる。この事件の後、ロス市警は重大な危機に陥った。人種問題に対する無神経さ、風紀の乱れ、暴力性が指摘され、それらが市警全体に幅広く蔓延しているに違いないとみなされたのだ。

 統計学者の用語を使えば、ロス市警の抱える問題は"正規分布"だと考えられた。つまり、それらの問題をグラフにすると、ベル型曲線(鐘の外形に似た頻度曲線)になる。ベルの両端にごく少数の警官が位置し、問題の大部分が中間部に集中して存在するかたちになるということだ。さまざまな現象がベル型曲線を使って説明可能という考えが染みついてしまい、私たちは何にでもすぐにこの考えを当てはめてしまいがちだ。

 だが、ウォーレン・クリストファー(後にクリントン政権の国務長官を務めた)が率いた専門委員会の調査からは、まるで違う実態が浮かび上がる。

 一九八六~一九九〇年のあいだに、過剰な力の行使、または不適切な手段が用いられたという申し立てが、ロス市警の警官八五〇〇人のうちの一八〇〇人に対してなされた。要するに、ベル型曲線の中間部を占める大半の警官にはほとんど苦情が寄せられていなかった。

 さらに言えば、申し立てがあった一八〇〇人中、一四〇〇人への苦情は一件か二件のみ─留意して欲しいのは、申し立ての事実関係は証明されていないこと、すべてこの四年間に起きたこと、そして、過剰な力の行使に対する苦情は都会の警察の業務上、ある程度は避けられないことである(ニューヨーク市警には同様の苦情が年間三〇〇〇件も寄せられる)。

 ロス市警で四件以上の苦情が寄せられた警官は一八三人。六件以上が四四人。八件以上が一六人。一六件以上もの苦情のあった警官もいた。それをグラフにすれば、ベル型曲線にはならない。ホッケーのスティックのようなかたちになる。統計学者の言う"冪乗則"の分布だ─あらゆる活動は中間部ではなく片一方が極端になるのである。

 クリストファー委員会の報告では、問題を起こす警官がごく一部に集中している事態に何度も言及している。ある警官は過剰な力の行使が一三件、他の苦情が五件、"実力行使の報告書"(不適切な行為に対する内部報告書)の提出が二八回、銃の使用一件が報告された。別の警官は過剰な力の行使が六件、他の苦情が一九件、実力行使の報告書が一〇回提出され、銃の使用が三件と報告された。実力行使の報告書を二七回、あるいは三五回提出した警官もいた。

 数えきれないほど多くの苦情が寄せられた警官もいる。「手錠をはめられて膝をついている逮捕者のうなじを、理由もなく散弾銃の床尾で殴打した」。「一三歳の少年を殴りつけた」。「手錠をはめた逮捕者を椅子から引きずり降ろし、うつぶせになった後頭部や側頭部を蹴りつけた」、などだ。

 報告書を読む限り、六件以上の申し立てをされた四四人を解雇すれば、ロス市警がすぐにでも素晴らしい警察署に生まれ変わるという印象を強く受ける。だが、報告書はまた、この問題が見かけよりも解決が難しいことを示唆している。なぜなら四四人のワル警官はあまりにも悪すぎるうえに、腐ったリンゴを追放するための組織メカニズムが明らかに機能していないからだ。

 ロス市警の問題を正規分布だと誤ってみなすならば、より厳しい訓練や優秀な人材の確保など、中間部の質の向上を図るような解決策を提案するだろう。だが中間部に問題はない。そしてまた、中間部に効き目のある療法は、本当に治療が必要な一部のハードコア(筋金入りのワル)な警官にはほとんど効き目がないのである。

 一九八〇年代にホームレスが全米的な問題として浮上すると、これは正規分布の問題であり、圧倒的多数のホームレスが半永久的に困窮した状態から抜け出せないものと想定された。それは絶望的な想定だった。それほど多くのホームレスと多くの問題が存在するのなら、どうやって救いの手を差しのべればいいのか? 

 一九九〇年代はじめ、ボストン大学の若き大学院生デニス・コヘインが、博士論文の調査の一環として、ペンシルベニア州フィラデルフィアの保護施設で七週間生活した。数ヵ月後、コへインが施設を再訪すると、驚いたことに、つい先日まで一緒に暮らしていた人間がひとりもいなかった。「ほとんどの人がそれぞれの人生を歩みだしていました」。

 そこでコへインはデータベースを作成し(同種のデータベースとしては初の試みだ)、施設を利用して出ていったホームレスを追跡調査した。コへインの発見は世間の考えを大きく覆すものだった。正規分布モデルがあてはまらないことがわかったのだ。それは"冪乗則"だった。

「全体の八〇%が、入所してすぐに出ていくとわかったんです」とコへイン。

「フィラデルフィアの街で、ホームレスがホームレスとして過ごす期間のうち、最も多いのはわずか一日でした。次が二日。しかも一度、施設を出たら二度と戻らない。施設を利用せざるを得ない人間が誰でも本能的に考えるのは、どうしたら二度と施設に戻らずに済むか、ということに尽きます」

 残りの二〇%のうちの半分は、コへインが言う"時おり利用する者たち"だった。一度入所すると三週間ほど滞在するパターンが周期的に繰り返され、冬にそのパターンが顕著になる。年齢は若く、薬物依存者も少なくない。

 そして、コへインが最も強く関心を惹かれたのが、最後の一〇%─曲線の一番端のグループ─だ。その一〇%こそが慢性的なホームレスであり、何年も施設に住みつく者もいる。年も取っている。彼らの多くが精神疾患か身体障害を抱え、ホームレスを社会問題─道端で寝たり、強引に物乞いしたり、酔っぱらって戸口で寝転んだり、地下鉄の入り口や橋の下にたむろしたりする─とみなすとき、世間はこのグループを指して言う。

 一九九〇年代はじめ、ニューヨーク市には、二万五〇〇〇人ものホームレスが存在していたとされている。これは驚くべき数字だ。だがコへインのデータベースを参照するならば、慢性ホームレスは二五〇〇人に過ぎない。

 さらに言えば、このグループの医療および社会福祉システムの経費には、世間の予想をはるかに超える金額がかかっている。コへインの概算によれば、ニューヨーク市では少なくとも年間六二〇〇万ドルが"ハードコア"なホームレスに費やされていた。コヘインが説明を続ける。

「施設のベッド一床に年間二万四〇〇〇ドルの経費がかかります。ベッドの間隔が一八インチ(約四六センチメートル)しか離れていない簡易ベッドの経費が、です」

 ホームレスのためのボストン保健医療プログラム(BHCHP)は先頃、慢性ホームレス一一九人の医療費について調査を行った。五年間で三三人が死亡。七人が養護施設に入所。それでもなお、救急治療室を訪れた回数は合計で一万八八三四回にのぼり、一回に最低でも一〇〇〇ドルがかかっている。

 カリフォルニア大学サンディエゴ校メディカルセンターが、慢性ホームレスの泥酔者一五人を一八ヵ月に渡って追跡調査したところ、救急治療室に運ばれた回数は全部で四一七回、医療費がひとりあたり平均一〇万ドルにのぼった。あるホームレス─つまりサンディエゴのマレーのことだが─は、実に八七回も救急治療室に搬送されていた。

「入院であれば、肺炎をこじらせていた可能性があります」と言うのは、サンディエゴ市の救急医療の責任者で、調査結果を文書にまとめたこともあるジェイムズ・ダンフォードだ。

「アルコールを飲んで酔っぱらい、気道内に異物を吸引し、嘔吐物が肺の中に入り込むと肺膿瘍と呼ばれる症状を起こします。さらに、雨の中寒い戸外にいるために低体温症を引き起こす。結局は、複合感染症を患って集中治療室に入れられます。車やバスやトラックに轢かれることも多い。脳神経がやられることも多い。彼らは昏倒しやすく、頭を強く打てば硬膜下血腫になり、血腫を吸い出さなければそのまま命を落としかねない。

 人間が倒れて頭を打てば、最低でも五万ドルの治療費がかかります。同時にアルコールの離脱症状や重度の肝疾患が明らかになり、感染症はますます治りにくい。しかも、この問題には終わりがありません。毎回、同じことの繰り返し。治療費はかさむ。看護師は仕事を辞めたがる。なぜなら、いつも同じ人間が運ばれて来るのに、私たちの仕事といったら、その同じ人間を歩けるようにして送り出すことだけだからです」

 ホームレスの問題はロス市警のワル警官の問題に似ている。少数の"ハードケース"(常習者)の問題であり、それは良いニュースでもある。問題がごく一部の人間に集中しているのなら、じっくり向かい合って解決策を練ればいいからだ。だが、それは同時に悪いニュースでもある。なぜなら"ハードケース"の解決自体が"ハード"だからだ。


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 彼らは昏倒するほどの酔っぱらいであり、肝疾患や複合感染症や精神疾患を患っている。時間と世話と多額の費用がかかる。だが慢性的なホームレスにはすでに巨額が費やされており、コへインは、ホームレス問題の解決に必要な費用は、問題を見て見ぬふりをするために必要な費用よりもずっと低く抑えられると考えた。なにしろマレーは、ネバダ州のほとんど誰よりも多額の医療費を使ったのだ。二四時間付きっきりの看護師をひとりとアパートを一室貸し与えたほうが、ずっと安くついただろう。

 ホームレス問題における"冪乗則"の主導者はフィリップ・マンガーノだ。

 マンガーノは二〇〇二年、当時のブッシュ大統領にホームレス統合会議─合計二〇にも及ぶ連邦政府の関係機関を監督する団体─の議長に任命された。マンガーノはすらっとした身体つきにふさふさした白髪で、どこか人を惹きつける存在感を放っている。まずはマサチューセッツ州のホームレス問題で手腕を発揮した。全米各地をまわり、その土地の市長や市議会にホームレス問題の"本当の"分布曲線について説いてまわる。

 ─スープキッチン(無料食堂)やシェルターを運営するだけでは、慢性ホームレスは、それこそ慢性ホームレスから抜け出せません。あなたの街では一時宿泊施設を建て、スープキッチンを設置していますね。それはホームレスを、「幅広く存在し、始末に困る中間部の問題」と捉えているからです。けれども、「裾野の問題」と捉えれば解決できるのです─。

 こんな具合に、ホームレス対策を抜本的に見直すよう二〇〇以上の都市で説得にあたってきた。

「先日は、ミズーリ州セントルイスに行ったんだが」とマンガーノ。昨年六月にアイダホ州ボイシに飛ぶ途中でニューヨークに立ち寄ったとき、私はマンガーノに話を聞いた。

「そこでホームレス問題の担当者と話した。どう提案しても、どうにもままならないホームレスが数人いるのだそうだ。だからこう言ったんだ。『自分のポケットマネーでアパートメントの部屋を借り、彼らのところへ行って文字通り鍵を見せて言うんだ。これはアパートの鍵だ。今すぐついてくるならこれを渡そう。そしたら部屋はあんたのものだ』とね。

 そこで担当者はその通りにした。するとひとり、またひとりとホームレスがついてきた。私たちの目的は、ホームレスに奉仕するためのプログラムに際限なく助成金を出す、という古い考えから転換して、ホームレスを事実上ゼロにする成果のために予算を使うことなんだ」

 マンガーノは歴史通だ。マルコムXの古い演説を聞きながら眠ることもあるし、自分の発言に公民権運動やベルリンの壁や、何よりも奴隷制廃止運動を織り交ぜることもある。

「私は制度廃止論者なんだ」。マンガーノが言う。

「マサチューセッツ州にあったかつての私のオフィスの向かいにはボストンコモンという、マーティン・ルーサー・キングJr.が演説した公園があり、黒人部隊の第五四連隊の記念碑も建っている。すぐそばにあるパークストリート教会は社会改革家のウィリアム・ロイド・ガリソンが奴隷制度廃止を訴えた場所だ。またその近所には、自身も奴隷であり奴隷解放運動に身を投じたフレデリック・ダグラスが有名な演説をしたトレモント寺院がある。いずれも奴隷制度や黒人差別と戦った象徴だ。私の中に深く染み込んでいるのは、社会悪にはその場限りの対処はしないということだ。社会悪は一気に終わらせなければならないんだ」

3

 コロラド州デンバーの古いYMCAは、ダウンタウンを貫くショッピングモールの一六番ストリートに位置している。六階建ての堂々とした石造りの本館は一九〇六年に、隣の別館は一九五〇年代に建てられた。

 一階はジムとエクササイズルーム。上階は数百室のアパートメントだ─明るいペンキに塗られたベッドルームが一室だけの部屋。リビングやベッドルームから水回りがひとつの部屋に収まったワンルーム。そして電子レンジや冷蔵庫、エアコンの付いた単身者用(SROスタイル)の部屋。ここ数年、これらの部屋は、ホームレスのためのコロラド連合(CCH)が所有し管理している。

 大都市の基準から言っても、デンバーは深刻なホームレス問題を抱えている。冬は比較的温暖で、夏は南隣のニューメキシコ州や西隣のユタ州ほど暑くないため、多くの貧困者を引きつける。市内には慢性的なホームレスがおよそ一〇〇〇人いると見積もられ、そのうちの三〇〇人が一六番ストリートのショッピングモール沿いか、近くのシビックセンター公園にたむろしている。

 ショッピング街の店主の多くは、ホームレスの存在が客を怖がらせて追い払ってしまうのではないかと恐れている。北へ数ブロック行った病院のそばには、アルコール依存症患者治療センターの簡素で背の低い建物があり、年間二万八〇〇〇人の入院患者を治療している。その大半が街で意識を失ったホームレスで、原因は酒か、または、最近はこちらのケースが増えているのだがアルコール入りの口内洗浄液(マウスウォッシュ)によるものである。

「ホームレスはドクター・ティッチと呼んでいますが、それがホームレスの飲むマウスウォッシュのブランド名なんです」

 そう語るのは、デンバー市のソーシャルサービスの責任者であるロクサーン・ホワイトだ。

「そんなものを飲めば、内臓にどんな影響を与えるか、おわかりになりますよね」

 二〇〇四年、デンバー市はマンガーノと契約した。連邦政府と同市の財源を合わせてCCHが新プログラムを開始し、これまでに一〇六人が登録した。対象は最も高くつく"デンバー市のマレー"たちだ。CCHが探したのは、長くストリートで暮らしてきた者、犯罪歴のある者、薬物依存や精神を患った者─である。

「六〇代はじめの女性がひとりいましたが、まるで八〇代に見えましたよ」

 CCHの薬物治療の責任者であるレイチェル・ポストが言う(筆者注・ポストは個人が特定されないように、描写を多少変えている)。

「その女性は慢性的なアルコール依存症でした。普段、目が覚めるとさっそくその日飲めるものを探しに行き、しょっちゅう意識を失って倒れます。別のケースですが、最初の週に来たある男性は、メタドン維持療法(ヘロインなどの薬物依存症患者の禁断症状を緩和する薬物代替療法)を試していたほか、精神疾患の治療も受けていました。一一年の刑期を務めた後、路上で暮らしはじめ、そのうえ心臓に穴まで開いていたんですよ」

 ホームレスのリクルート戦略は、マンガーノがセントルイスで説いた方法と同様に簡単なものだった。

「無料のアパートメントはどうだい?」

 登録者はYMCAのワンルームか、別の建物に借り上げた部屋のどちらかに入る。ただし支援プログラムで決められた仕事に就くことに同意しなければならない。YMCA一階のラケットボール・コートだった場所に司令本部が設けられ、一〇人のケースワーカーが任務にあたる。週に五日、午前八時半から一〇時まで、登録者全員の状態を入念に検討する。会議テーブルを囲む壁にいくつも設置された大きなホワイトボードには、診察時間の予約、公判日、投薬治療のスケジュールなどが書き込まれている。

「仕事をうまく進めるには、今の一〇倍のスタッフが必要です」。ポストが言う。

「その場に足を運び、相手を探し出して暮らしぶりを確認する。毎日、連絡を取り合う相手もいます。理想を言えば、二、三日ごとに連絡を取りたいところですけどね。今、非常に心配な登録者が一五人います」

 登録者ひとりにかかる費用の総額は年間一万ドル。それにプラス、デンバー市内のワンルームアパートメントのひと月の家賃が平均三七六ドルだから年間で約四五〇〇ドル。つまり、慢性的なホームレスひとりに部屋とその他の医療ケアを与えるためには、年間一万五〇〇〇ドルが必要になる。

 言い換えれば、路上生活のときの三分の一の費用で済むことになる。登録したホームレスの暮らしが安定すれば、仕事を見つけ、ますます自力で家賃が払えるようになり、ひとり分の年間経費が六〇〇〇ドル近くまで抑えられる。その後、デンバー市のホームレス支援計画は新たに七五室を追加し、今後一〇年間にあと八〇〇室を必要とすることになる。

 むろん、現実はそれほどスムーズではない。重い病気や深刻な問題を抱えたホームレスを安定させ、最終的に職に就かせるという考えは願望に過ぎない。どうしても入居しようとしない者もいる。つまるところ、それがハードケース(解決の困難なタイプ)だ。再びポストが解説する。

「ある男性を入居させました。まだ二〇代の若者なんですが、すでに肝硬変を起こしていました。血中アルコール濃度が〇・四九%だったこともあります。普通の人なら死んでしまう数値です。最初の部屋には友人をたくさん連れ込んでパーティを開き、部屋をめちゃくちゃにし、ガラスも割ってしまいました。そして新しい部屋を与えると、また同じことをしでかしたんです」


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 その男性はここ数ヵ月、酒を断っているとポストは言う。だが、またいつ逆戻りするかわからないし、再び部屋を破壊しないとも限らないため、別の方法を模索しているのだと打ち明ける。

 ポストは先日、ニューヨーク市で同様のプログラムに携わっているメンバーと電話会議を行い、ホームレスにチャンスを与え過ぎると、単に無責任な行動を促してしまうだけなのかどうかについて話し合った。そういう人間もいるのだろう。

 だが他にどんな方法がある? 若者を路上に戻せば、もっと費用がかかってしまう。

 福祉事業に関する最近の考え方は、関係機関による支援は依存関係をつくり出さないために一時的かつ暫定的にとどめるべきだ、というものだ。だが二七歳にして肝硬変を患った、血中アルコール濃度〇・四九%の若者は、アパートメントといった通常の誘因にも処罰にも反応しない。

「最も厄介な相手は、長年ホームレスを続け、路上に戻ることをまったく恐れない人たちです」。ポストが続ける。「夏になると言うんです。『あんたたちの規則に従う必要はないね』って」。

 "冪乗則"のホームレスの場合、正規分布の場合と正反対の方針に従わなければならない。すなわち、依存関係をつくり出すべきなのだ。社会の外側で生きてきた人間を内側に取り込み、YMCAの一階に本部を置くケースワーカー一〇人の監督の下で、生活を立て直させるのだ。

 それこそが、まさに"冪乗則"のホームレスについて理解しにくい点である。

 経済的な観点から見た限り、その方法は完全に理にかなっている。だが道徳的な観点からすれば公平には見えない。デンバー市には、その日暮らしをし、仕事をいくつか掛け持ちし、すぐにでも支援を必要とする人々が間違いなく数千人はいる─だが誰も、そのような人たちにアパートメントの鍵は与えない。それなのに卑猥な言葉を叫び、ドクター・ティッチをらっぱ飲みするホームレスには与えられる。生活保護を受けている母親の資格が切れれば、援助は打ち切りだ。だがホームレスが部屋をめちゃくちゃにすれば、新しい部屋が用意される。

 社会的利益には本来、道徳的な正当性があるべきだ。通常それらの利益は、寡婦や身体の不自由な退役軍人や小さな子どもを抱えた貧しい母親に与えられる。泥酔して歩道で意識を失うホームレスにアパートメントの部屋を貸し与えることには別の論拠がある。それは単に効率の問題だ。

 私たちはまた、社会的利益は恣意的に配分されるべきではないと考える。一部の貧しい母親だけに与えたり、身体の不自由な退役軍人を任意に選んで与えたりしない。公的基準を満たす者すべてに与えるからこそ、普遍性の点からも、行政による援助への道徳的な信頼性が生まれる。

 だがデンバー市のホームレスプログラムは、慢性的ホームレス全員を助けてはいない。支援住宅プログラムには、六〇〇人が順番待ちをしている。全員がアパートメントに入居できるまでには何年もかかるだろうし、結局、入居できない者も出るだろう。

 充分に行き渡る予算はなく、全員を少しずつ支援すること─普遍性の原則を遵守する─は、少数の人間に多くを支援することほど費用効率が高くない。その場合の"公平"とは、シェルターやスープキッチンを用意するという意味であり、シェルターやスープキッチンではホームレスの問題は解決しない。

 私たちが通常、正しいと感じる道徳的な直感は、少数のハードケースに関して言えばほとんど役に立たないのだ。"冪乗則"の問題が私たちに与える選択は、嫌な気分を味わう選択だ。原則に従うのか、あるいは問題を解決するのか。両方は手に入らないのである。

4

 デンバー市内の古いYMCAから北へ数マイル、州間高速道路二五号線のランプを降りたスピア大通りの道路脇に、排ガスの測定装置に接続した大きな電光掲示板が設置されている。

 排ガス浄化装置が正常に機能している車が通ると、電光掲示板に"良好"という文字がぱっとつく。規制レベルを大幅に超えた車には"不良"の文字。スピア大通りの出口に立ってサインをしばらく見れば、ほぼすべての車が"良好"とわかるだろう。アウディA 4─"良好"。ビュイック・センチュリー─"良好"。トヨタ・カローラ─"良好"。フォード・トーラス─"良好"。サーブ・9─5(ナイン・ファイブ)─"良好"。そして二〇分後、ぽんこつのフォード・エスコートか改造したポルシェが走り去った瞬間、"不良"の文字が点滅した。

 電光掲示板から浮かび上がる大気汚染の問題は、YMCAの朝のスタッフミーティングから浮かび上がるホームレスの問題とよく似ている。車の排ガスもまた"冪乗則"に当てはまり、一部のハードケースに集中する問題の解決が難しい理由を新たに教えてくれる。

 たいていの車は、とりわけ新しい車は極めてクリーンだ。二〇〇四年に製造された整備の行き届いたスバルの排ガスに含まれる一酸化炭素濃度はわずか〇・六%。ほとんど無視しても構わないような数字だ。だが、どこのハイウエイでも、理由はともかく─車齢、不充分な修理、改造など─、一酸化炭素の濃度が一〇%を超える車が走っている。これはスバルのほぼ二〇〇倍に相当するレベルだ。デンバーでは、全車両のうちのわずか五%だけで、排ガスによる大気汚染の五五%を占めている。

「一五年前に製造された車だとしよう」。デンバー大学で車の排ガスを専門に研究する化学者のドナルド・ステッドマンが解説する。スピア大通りに電光掲示板を取りつけた本人だ。

「もちろん古い車ほど壊れやすい。人間と同じだ。そして"壊れる"というのは、あらゆる機械的な機能不全を指している─コンピュータが作動しない。燃料噴射バルブが開きっぱなし。触媒の浄化率が低下した。これらが、高濃度の排ガスの原因であることは珍しくない。私のデータベースには、一マイルあたり七〇グラムの炭化水素を出す車が少なくとも一台はある。つまり、その車の排ガスでホンダ・シビックが運転できる。古い車だけじゃない。タクシーみたいに、新しくても走行距離の多い車も同じだ。一九九三年、ロサンゼルスの地方検事局がタクシー会社を相手に民事訴訟を起こした。ある検事がロサンゼルス国際空港に行ったとき、ベルキャブ社のタクシーの排ガス装置がひどいと気づいたんだ。同社のタクシーの多くは� �規制レベルの一〇倍もの大気汚染物質をまき散らしていた」

 ステッドマンの意見では、最近の「スモッグ・チェック」システムにはほとんど意味がない。排ガスが基準の濃度を超える有害物質を出していないかどうかを調べ、この検査に合格しない限り、その車は翌年、登録が更新できないという仕組みだ。よって、デンバー市の大方のドライバーは毎年、検査センターで排ガスの検査を受ける義務がある。仕事の合間を縫って列に並び、一五~二五ドルを支払ってだ。だが、全体の九〇%は検査の必要がない。

「全員が乳がんの検査に行くわけじゃない」。ステッドマンが続ける。

「みんながエイズ検査を受けるわけじゃないだろ」

 さらに言えば、そのようなセンターの検査はたいていお粗末で、基準を満たさない車にもおざなりな修理しか行わない。クルマ好き─高性能で大気汚染物質をまき散らすスポーツカーの所有者がスモッグ・チェック当日に"クリーンなエンジン"を搭載することはよく知られている。あるいは排ガス検査を受けず、どこか遠い町で車を登録するか、検査センターに"ホット"な─フリーウエイでクルマを猛スピードで乗り回してきた─状態で到着するのも、汚れたエンジンをクリーンに見せかける絶好の方法だ。合格するはずのない車がたまたま、検査にパスすることもある。汚れたエンジンはむらが出やすく、短い間だけクリーンに燃焼することがあるからだ。

 ステッドマンの見解では、このような市の検査制度で、大気の質がいくらかでも改善するという証拠はほとんどない。

 ステッドマンは代わりに、「移動式の検査」を提案する。一九八〇年代はじめに彼は、ハイウエイを走る車の排ガスを、赤外線によって即座に計測して分析するスーツケース大の装置を開発した。スピア大通りの電光掲示板もそのひとつである。市当局の対策として、装置を積んだバンを五、六台、街のあちこちのフリーウエイの出口ランプに停めてパトカーを待機させておき、基準を満たさない車をその場で停止させればいい、とステッドマンは主張する。

 数台のバンを使えば一日で三万台の車が調べられるし、ステッドマンの試算によると、デンバー市の運転手がスモッグ・チェックに費やす二五〇〇万ドルを使えば、市当局は毎年、大気汚染物質を実際にまき散らす二万五〇〇〇台の車両を突き止めて修理させることができ、デンバーの都市圏の排ガスを数年で三五~四〇%も削減できるという。市は大気汚染にその都度対処するのをやめ、問題を一気に解決する取り組みに着手できる、というわけだ。


 それではなぜ、ステッドマンの方法が採用されないのだろう? 道徳的な障害はない。すでに私たちは、ヘッドライトが点いてない、サイドミラーが壊れている、という理由でパトカーに車を停められることに慣れているし、新たに排ガス規制の検査が加わったところで何でもないだろう。

 だがステッドマンの提案は、大気汚染が私たち全員の問題だとみなす傾向に逆行している。私たちは、みんなに共通する問題に対して素早く効果的に対処する、安心できる制度を生み出してきた。議会は法律を通過させる。環境保護庁は規制を発表する。自動車産業がほんの少し環境に優しい車を開発すると─あら不思議─大気はきれいになる。

 だがステッドマンは、ワシントンDCやデトロイトでの活動にはあまり関心がない。大気汚染を防止するという難問は、法の整備というより法令の遵守(コンプライアンス)の問題だ。これは政策の問題ではなく取り締まりの問題なのだが、ステッドマンの解決策は結局、どこか不満が残ることになる。

 ステッドマンは、数台のバンにスーツケース大の新手の装置を搭載し、デンバーの大気汚染問題を解決したい。だがこんな重大な問題に、そのような小さな解決策で効果があるのだろうか?

 それこそがロス市警に関するクリストファー委員会の発見が、一見物足りなく感じられた理由だ。私たちは、通常の官僚機構では対処し切れないと思う問題に出くわすと、有識者専門委員会を設置し、包括的な改革を求める。だがクリストファー委員会で最も衝撃的な意見は何だったか?

 手錠をはめた容疑者を殴打するような履歴を持つ警官が、「普段から法の尊重を喚起し、国民に信頼感を与える模範的態度で行動している」という勤務評定を上司から受け取っていたという話だった。それは上司が警官の過去のファイルに目を通していない証拠に他ならず、クリストファー委員会の報告書が示唆するところは、「警部に部下のファイルを読ませる」だけで、ロス市警は問題を解決に導けるかもしれない─ということだった。

 ロス市警の問題もまた方策の問題ではなく、遵守の問題なのだ。ロス市警は既存のルールを忠実に守る必要があったが、それは組織上の抜本的な改革を切望する国民が聞きたいことではない。"冪乗則"の問題を解決するということは、道徳的な直感を打ち破るだけではない。政治的な直感も打ち破ることになるのだ。

 結局、世間が長年、ホームレスを「手の施しようのないグループ」だと十把一絡げにして考えてきた理由は、単にもっと良い方法を知らなかったからではない。実際は、もっと良い方法など知りたくなかったのだ。従来のやり方のほうがずっと簡単なのだから。

 "冪乗則"の解決策は右派には受けが悪い。なぜなら、その解決策が"特別な扱いに値しない人々"を特別扱いするからだ。そして左派にも受けが悪い。なぜなら、公平性よりも効率性を重視する解決策が、シカゴ学派や市場原理主義者に特有の、費用対効果分析の冷酷な計算を彷彿とさせるからだ。数百万ドルが節約できる、きれいな大気が戻ってくる、もっと良い警察が実現する、といった約束も、そのような不快感を完全には払拭してくれない。

 デンバーで絶大な人気を誇るジョン・ヒッケンルーパー市長はここ数年、ホームレス問題に精力的に取り組んできた。二〇〇五年夏の一般教書演説では、他のどんなテーマよりもホームレス問題に時間を割き、演説の舞台にはシビックセンター公園という象徴的な場所─ホームレスがショッピングカートを押し、ごみ袋を提げて毎日のようにたむろする公園─をわざわざ選んだ。地元ラジオのトーク番組に何度も出演しては、その都度、市の取り組みを訴えた。調査を委託し、ホームレスの増加が市の財政に負担になっている状況についても説明してきた。

「それでも」と、ヒッケンルーパー市長は言う。

「スーパーマーケットの入り口で私を呼び止め、こんなふうに言う人はまだいます。『信じられんね。あんなホームレスのやつらを助けるつもりだとは。あの浮浪者どもを』とね」

5

 二、三年前の早朝のこと。マーラ・ジョンズに夫のスティーブから突然電話が入った。スティーブは勤務中だった。

「夫の電話で起こされたんです」。マーラがそのときの様子を述懐する。

「スティーブは電話の向こうでしゃくりあげて泣いてました。私、同僚の身に何かあったんだと思いました。『ねえ、どうしたの、何があったの?』。すると夫が言ったんです。『きのうの夜、マレーが死んだんだよ』」

 腸内出血だった。その朝、警察署では数人の警官がマレーのために黙禱を捧げた。

「彼のことを思い出さない日はほとんどありません」。マーラが打ち明ける。

「クリスマスが来ますね─私はいつもマレーにプレゼントを買っていたんです。暖かい手袋とブランケットとコートに困らないようにって。私たち、お互いに敬意を持っていました。

 こんなこともあったんですよ。車輪付きの担架から泥酔したある患者が飛び降りてこっちに向かって来たとき、マレーが飛び降りて拳を振りあげてこう言ったんです。『俺の天使に触るな』。ホームレスプログラムに参加したときのマレーは素晴らしかった。施設に入れられて、仕事ももらって貯金も貯めて、毎日きちんと働いてお酒も飲まなかった。プログラムをちゃんとこなした。見守る人がいれば、社会の一員として立派にやっていけるホームレスはいるんです。ただ、マレーには、そうやって、ずっと見守ってくれる人が必要だったんです」

 だがもちろん、リノの街にはマレーに必要な社会的制度を提供する場所や機会がなかった。費用がかさむと判断した人間がいたに違いない。

「夫に言いました。誰も引き取り手がいないのなら、私が遺体を引き取りたいと」

 マーラが続けた。

「墓標のないお墓に埋葬させるなんて、とんでもないわ」

*注・・・西欧では「墓標のない墓では霊が迷う」と言われている。
 
WHAT THE DOG SAW
Copyright © 2009 by Malcolm Gladwell
All rights reserved including the rights of reproduction in whole
or in part in any form.
Japanese translation rights arranged with Pushkin Enterprises, Inc.
c/o Janklow & Nesbit Associates through Japan UNI Agency, INC.,Tokyo.

* * *


『THE NEW YORKER 傑作選2
失敗の技術  人生が思惑通りにいかない理由』

著者:マルコム・グラッドウェル
講談社
定価 1,470円(税込)⇒本を購入する(AMAZON)

著者●Malcolm Gladwell(マルコム・グラッドウェル)
1963年イギリス生まれ。カナダ・トロント大学トリニティカレッジ卒。『ワシントン・ポスト』紙のビジネス、サイエンス担当記者を経て、現在は雑誌『ニューヨーカー』のスタッフライターとして活躍中。
 
ある製品やメッセージが突然、爆発的に売れたり広まったりする仕組みを解き明かした『The Tipping Point』(邦題『急に売れ始めるにはワケがある』)、人間は最初の直感やひらめきによって物事の本質を見抜くという仮説を検証した『Blink』(邦題『第1感』)、傑出した天才や成功者は、持って生まれた才能よりも環境や機会、文化によって育まれたと論じる『Outliers』(邦題:『天才! 成功する人々の法則』)など、これまでの著書はいずれも世界で200万部超の大ベストセラーになっている。いま世界でもっとも人気のあるコラムニスト。
 
訳者●勝間和代(かつま かずよ)
1968年東京生まれ。経済評論家、公認会計士。早稲田大学ファイナンスMBA。中央大学ビジネススクール客員教授。慶應大学在学中から監査法人に勤め、アーサー・アンダーセン、マッキンンゼー、JPモルガンを経て独立。三女の母。近著に『チェンジメーカー』、『やればできる』ほか。ブログ『私的なことがらを記録しよう!!』も日々更新中。


 



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